松笠観音寺の歴史
松笠観音寺は、天文年間(1530年)戦国時代の動乱期、中国地方の守護職として君臨した銀山城・安芸武田家の家臣であった、戸坂入道道海(へさかにゅうどう どうかい)によって開基されたといいます。しかし、銀山城は大内・毛利両氏の軍勢に攻められて落城。落城の時に後の外交僧、安國寺恵瓊(幼名・若竹丸1539~1600年)を脱出させたのが道海でした。しかし、戸坂城主であった道海も1540年自刃して果て観音堂もそれを開いた道海と運命をともに荒廃したと思われます。
江戸時代に入り治世も安定した寛文13年(1673年)比治山勝楽寺栄尊法師を願主として再興されています。後には毛利氏の使僧また、豊臣秀吉の側近として活躍し戦国の世を生きた恵瓊や福島正則ゆかりの寺、国宝安國寺不動院から庇護されました。『不動院文書』『新山相承系図』には不動院から僧侶が松笠観音寺の住職として遣わされ住持したことが記録されています。
不動院文章 (右枠)
不動院は本来の寺号を安国事といい、その創立は上代に遡るといわれる。
現代の金堂(国宝)は、安国事により山口から移築されたものである。
その堂宇とともの膨大な文章が伝えられたが、これは松笠観音寺と龍泉寺に関する文章を収めた袋の表書きである。
(広島県立文書館所蔵)
二世宗誉圓水法師、三世宗圓法師、四世覚心(泉海)阿闍梨と続き中興され不動院歴代住職が仏像・仏具など一切の世話をしてきたと記録され、五世以後は無住となりながらも真言宗福王寺に頼りながら明治維新を迎えたと伝えられます。
近年においては長きにわたり無住荒廃した松笠観音寺を昭和47年(1972年)以降、戸坂の新中妙譲法尼が境内地の堂守と祭祀を担い、さらに瑛亮僧正により歴史調査に基づく著書『物語・松笠観音寺』を遺されています。
現在は山のお寺を奥の院、戸坂の麓のお寺を本院として上下を結び真言密教宗祖弘法大師、歴代松笠観音寺先師の志を継いで護られています。
境内北側には、昔から『まつかさ稲荷』と親しまれてきた重氏稲荷大明神と、残念ながら平成20年3月13日不審火により全焼した三鬼堂跡に仮堂があり、神仏分離令の歴史がありながらも現在まで神仏習合修験的な要素を残し信仰されてきました。
境内東南側には水子観音様、弘法大師の井戸『弘法水』が湧き、釈迦堂と歴代松笠観音寺住職尊師の墓があります。
慶安4年(1651年)松笠観音寺の再興に先立ち、松笠山に松の実が蒔か、それとともに藩が伐採を禁じたという『御留山』となる。現在でも松笠観音寺境内には杉、ヒノキ、アベマキ、イヌマキ、イヌマキ、モッコクなど広島市指定天然記念物の巨樹群の他、さまざまな樹木が生育している。平成3年9月の台風19号の未曾有の強風により大杉、イヌマキは根元より倒れまた、近年松枯れの被害にあっているが、しかし現在でも樹齢300年と推定される椿とその群生から『つばき寺』とも呼ばれています。
木の間の観音堂
右記の写真は、平成3年9月の台風19号の直前に撮影されたものである。平成13年以前の旧観音堂は、明治9年の(1876年)5月に再建上棟されたもので、この写真は井戸側から御留松笠山の遺木である杉木立の中に観音堂を望んだものである。今再び、この風景を望むことはできない。